東光寺の歴史

東光寺の歴史
東光寺の歴史のご紹介
1. 毛利吉就(毛利家三代藩主)と慧極禅師(木庵禅師の弟子)
貞享四年(1687年)慧極は幕府の命により江戸白金瑞聖寺主となる。 江戸城内にて吉就は慧極と初対面し、帰依する。 二十歳の吉就は父綱広の信奉した黄檗山開山隠元禅師の法統であり、萩出身の慧極を信頼した。
2. 東光寺の創建
吉就は慧極のために寺を建てようとしたが、当時は新寺の建立が禁止されていたので、下関(厚狭郡松谷村)の廃寺であった東光寺(本尊薬師如来)を、家臣の別荘地であった萩松本の土地を買い取って移した。この東光寺創建は元禄四年(1691年)のことである。
3. 護国山東光寺の名の由来
東光は「薬師経に曰く東方この土を過ぐる十恒河沙等、仏土の外に世界あり浄瑠璃と名づく。彼の土に仏あり薬師瑠璃光如来と名づく」の文中より出ており、護国は「仁王護国経」より出ている。
4. 伽藍建設の流れ
(1) 薬師堂 元禄四年(1691年)
(2) 禅堂 元禄六年(本尊文殊大士)支院円福院
(3) 総門 元禄六年
(4) 鐘楼 元禄七年
   吉就死去⇒吉広へ。黄檗山万福寺の末寺となる
   支院鉢多院 慧極引退、二代雪門晋山
(5) 大雄宝殿 元禄十一年(1698年) 本尊釈迦牟尼・脇士迦葉・阿難
(6) 天王殿 元禄十二年-弥勒菩薩・四天王
(7) 円福院観音堂 元禄十四年-二代雪門退寺
(8) 斎堂 宝永元年(本尊緊那羅王) 宝永二年三代喝宗晋山
(9) 鎮守社 宝永四年(1707年)神仏混淆
(10) 庫堂 享保十七年 庫裡ともいう
(11) 開山堂 享保十九年
(12) 大方丈 寛政四年(1792年)
(13) 大雄宝殿大修理 文化三年
(14) 三門 文化九年(1812年)
5. 明治以降
廃藩置県後の寺禄廃止により大雄宝殿・大方丈・庫裡・鐘楼・総門・三門・土蔵を除く他の建物はすべて解体された。昭和四十一年大雄宝殿・鐘楼・総門・三門が国指定の重要文化財となった。これらは昭和・平成にかけ文化財として大修理を受け保護されている。
1. 毛利吉就(毛利家三代藩主)と慧極禅師(木庵禅師の弟子)
1. 毛利吉就(毛利家三代藩主)と慧極禅師(木庵禅師の弟子)
黄檗宗について
黄檗宗は中国僧隠元隆琦禅師を宗祖とする禅宗の一派です。全国に約四百の末寺があり、本山は京都宇治市の黄檗山萬福寺です。

隠元禅師は、中国明末の高僧で、遠く日本にまでその高名が知られていました。当時、中国福建省福清県の黄檗山萬福寺の住持でしたが、日本からの度重なる招きに応じて、承応三年(1654年)、六十三歳で、多くの門人・文化人等を伴って来日され、後水尾法皇や徳川幕府(四代将軍家綱)の尊信を得て、現在の地に、寺域十万余坪を与えられ、中国の黄檗山萬福寺(古黄檗)を模して、明朝様式の禅寺を創建し、寺名も同じ黄檗山萬福寺とされました。時に寛文元年(1661年)のことでした。

翌年、隠元禅師は祝國開堂の法要を行い、曹洞・臨済の二派に加えて、新たに黄檗の一派の開宗がなりました。日本臨済宗に対して、中国臨済宗とも言うべき黄檗宗は、江戸時代末まで宗派名を「臨済正宗」としていました。その後、明治九年に日本の臨済宗と区別して宗派名を黄檗宗とかえました。

隠元禅師の来日と黄檗宗の開宗は、近世の宗教史・文化史の上で重大事となりました。厳重な鎖国時代にもかかわらず、隠元禅師が、多くの門人とはじめ工匠・彫刻家は言うまでもなく、衣師・沓師にいたる大集団を伴っていらしたため、宗教宣布ばかりでなく、書道・絵画・彫刻・建築・医学等の文化面にも多大な影響を与えました。

特に食文化において隠元豆は言うに及ばず、西瓜・隠元蓮(蓮根)・孟宗竹・錦明竹・トマトなどもその当時中国から持ち込まれたものだそうです。

最後に黄檗宗の教義は「参禅を以って仏心を究明し、唯心の浄土・己身の阿弥陀仏を体得し、禅教一如の妙諦により、転迷開悟・安心立命を期する」というものです。
>黄檗宗について
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